昭和44年03月04日 夜の御理解
これほど信心するのに、どうしてこういうことが出来るであろうかと、御理解42節のここは一節ですね、これほど信心するのにとこれほどとまではいかんでも、信心しておるのに、どうしていつまでも自分の心というのがこんなにも助からんのだろうか。救われんのだろうかと。本気でひとつ思ってみなければいけない。どうして自分という人間はこんなにも、もうこう助からんのだろうかね。本気で思わなければ、本気で取り組みはせん、それやっぱ本気で思わなですね。
毎日毎日腹が立っておったり、毎日毎日イライラしておったり、そういう難儀を持っておることをもう当たり前のようにしかも、それを全部自分の周囲のせいのように思うておる。これではいつまで経っても何十年経ったって、私はたいしたおかげは受けられんと思うね。ですから本当に自分助かってない自分というものを、本気で見極めてならどういうことに焦点をおいたらおかげが頂ける。もうこれはね自分で取り組んでいけん、神様がおかげくださらにゃ出来るこっちゃない。
自分の心ん中にもうどんな場合でも、有り難い有り難いという心が、このう頂けるようなおかげを頂くところに、私は信心さして頂く者の救いと言うか助かりがあると思うんですよね、それにはやはり何と言うても、結局自分の思いを捨てるということになるが。自分が右にしよう左にしようと、例えばそういう思いを捨てる以外にゃない。場合には成り行きがそれを求める場合がある。ある場合は親が、ある場合は子供がね、様々な事態がです、それをそのように求める。
だからその時にそういう気になること、それを私は信心とは親に孝行するのも同じことぞや、と仰るそういうことじゃなかろうかと思う。いわゆる寒中に筍堀りである。こんな寒中に筍があろう筈はないじゃないか。だからそげなことはしないし。いくら親がそげんなこと言うたっちゃそんな事するもんかと。いうところにはもう何時まで経っても助かりがない。神様があぁ仰るのであるからとね、主人が成り行きが、それは場合には親の場合もあろう子供の場合もあろうけれどもね。
それをそのまま神のお心として頂いていく。そういう稽古を本気ですることだとこう思うです。はぁ神様は今この寒中に筍食べたいと言いござると、こんな寒い時に筍があるもんですかと。いう様な反発したものではなくてです、本気で例えばそのう竹藪なら竹藪の中に入って、掘ってみる気になること。そしてなかったなら、掘りましたけどありませんでした、と言いやいいじゃないかと。そういう稽古をですね、私は本気で信心の稽古をさして頂いて、始めてどうしてと言えると思うですね。
そういう私はその焦点を置くというか、稽古に取り組まずしておっては何時まで経っても心が助からない。もうひとつ私は何と言うても、自分が助かるという事は、自分の思いを捨てるというところがあると思う。自分の心が助かるというのは。ですから自分の思いを捨てる。あのう昨年12月のあのう、御本部の古川先生のご夫妻がみえたときに、もうそれはいつもかつもあるかは知らんですけれども、ここにおる間はもう徹頭徹尾徹そうでしたですね。
もう古川先生が右と仰りゃ右、左と仰りゃ左、もうそれで本当にそのあのおばあちゃまももう助かりきってござるような感じです。あぁたそんなこと仰ってということ言われんのです。その通りの事しておられる、そこに古川先生の助かりがあり、いわゆるおばあちゃまの助かりがあるという風に、私は見たんですけれどもね。ひとつ自分のこうがいいですよああがいいですよ、そこにですねそれをその例えば、あのおじいちゃまがの言いござると思わずに。
神様が言いござるというふうに、まぁ頂ききらなければ、あぁしてていしゃくは出来んと思うですけれども、そこに私は信心は親に孝行するも同じことというおかげが頂けるね、だからおかげはその先です。そこに自由自在な喜びの心が次から次と頂けれるような、おかげを頂く時にです心の助かりがある。心の助かりがあってそしてのちに、私は様々な金銭のまたは人間関係の、または物質健康というようなその幸せの条件といったようなものが足ろうてくる。その大本をなすものはなんというても心。
いわゆる心のコロコロと有り難い方へ有り難い方へと転がっていけれる心の、その稽古をしなければならん。それにはまず自分の思いを捨てること、自分の心をまず捨てること、いわゆる自分を虚しゅうするということ。そこに例えば寒中に筍掘りと言われたら、はいとこういわば例えば本気になれる。ですからおかげはもうその先なんだ。だからまぁそこんところのおかげを頂くことにです、焦点をいよいよ置いて、信心の稽古をさしてもらわないけんと思いますね。
どうぞ。